私たちが知っている盆栽は、古くは古代中国の貴族階級の嗜みが走りであることは衆知のことかもしれません。
しかし、そこから日本の盆栽へと発展した過程で日本らしい独自の美的感覚が確立し、今や世界に絶対的な評価を受けるまでになりました。
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盆栽の起源はよくわかっていません。
絵画や書物、工芸品や建造物など一度完成されたものは保存ができて今でも観賞することができるし、その起源をひも解くこともできるかもしれませんが、盆栽は同じ形をとどめることができません。
それどころか、生きた芸術品であるがゆえに管理が悪ければ観賞価値が下がってしまったり、何かの事故で折れてしまったり枯れたりして永遠に失われてしまうこともあります。
後漢時代の盆栽の壁画:技術に国境はあるか
技術移転と気候風土・社会
盆栽の起源は中国が発祥と考えられていて、約1300年前の唐の時代の皇族李賢のお墓の壁画には、女官が器の上に色鮮やかな花の付いた植物を載せ捧げ持って歩いている姿が描かれています。
そのころの盆栽がどのような名前で呼ばれていたのかはわかりませんが、はるか昔から盆栽が宮廷や高官の間で愛されていたようです。
日本では、その存在は平安時代の末期までさかのぼります。
鎌倉時代前半に描かれた「西行物語絵巻」には大きな石付き盆栽らしきものが描かれていますし、「春日権現記」には貴族の邸宅の様子が描かれ、庭には樹形、容器ともに極めて進んだ様式の盆栽が置かれているのがわかります。
日本に現存する最古の盆栽は、徳川三代将軍家光の時代の五葉松の盆栽。
家光は盆栽を大変大事にして愛培していたことはよく知られていて、吹上御苑にたくさんの盆栽を飾って楽しんでいたといわれてます。
家光の時代にはすでに相当な大木であったことが知られていて、4~5人で持ち運ぶのでもやっとという大盆栽。
樹齢は約600年くらいと思われますが、今でも毎年新芽を吹いているそうです。
これらの大盆栽は、300年以上経った今でも皇居(大道庭園)と都立園芸高等学校内で管理されていて、大道庭園では約900種600点もの歴史ある名品たちが培養されています。
また、この「盆栽」という名前が浸透する明治以前までは、「盆景」とか「盆花」とかいう名前で呼ばれていたようです。
当時の書物には「盆栽」と書いて「ハチウエ」とルビが打たれていたことから、単に植物を鉢に植え替える現在の鉢植えが進化して、日本独自の盆栽の発展に繋がったと考えられます。
江戸時代以前の盆栽の資料はとても少なくその起源を知ることは難しいことです。
でもその発展の元をたどってみると、庭園の発達にあるということが分かってきます。
古代日本の住居には、二つの形式があったといわれます。
一つ目は地面を掘った穴に柱を立てて、草藁などで周りと覆う竪穴式住居と、現在も東南アジアに見られるような、地面から高いところに床を張った高床式住居です。
居住を持つようになった日本人は、今後は外敵の侵入を防ぐために居住敷地内の周りに柵を巡らせました。この柵内に植物を植えるようになったことが、庭園の基礎になったといわれています。
日本独特の居住文化が花開いたのは平安時代に入ってからです。
それは、貴族の住宅様式として誕生した神殿造でした。
南向きの寝殿を中心に左右対称に建物を配置し、建物との間は長い廊下でつなぎ、外には広々とした回遊式庭園や寝殿造庭園が作られました。
(写真:皇居東御苑の回遊式庭園、二の丸庭園)
この庭園は国々の名所を縮景したもので構成されていて、池にはいくつかの中島が設けられ、橋が架けられました。
庭園内の川は、せせらぎが聞こえるように工夫が凝らしてあり、白く泡立つ水面の様子や水の音にも気を配られていたそうです。
日本の自然そのものを凝縮したような庭園で、都の人間は納涼や月見、雪見など季節の行事を行って美しい自然を楽しんでいたようです。
この庭園の発達と一緒に、盆景という概念が生まれました。
最初の盆景は、石と砂を使って盆の上に砂浜を再現したものであったと古記に記されています。
戦国時代の終焉後、江戸時代に入ると世の中がようやく平穏になってきます。
このころになると、貴族階級だけでなく武家階級や一般民の間でも様々な芸術が盛んになり、園芸技術も発達していきました。
江戸時代の浮世絵版画:博物館・美術館情報サイト「ミュージアムカフェ」
当初、観賞用の鉢は中国から輸入された香炉など、違う用途のものを代用されていたそうですが、園芸の人気に伴って茶器や瓦などの焼き物製造地でも質のいい鉢が造られるようになりました。
初期の時代は、大型の盆栽が主流だったようですが、参勤交代の無聊を慰めるために小鉢仕立てのものが作られるようになりました。
これは、今の小品盆栽の始まりといえます。
また、樹形に関しても水墨画の影響を受けた文人作りや、篠竹に沿わせた篠作り、蛸作りなどがすでに確立していたことが分かっています。
明治以降になると、これまで見た目の珍しさを競っていた盆栽の概念が、自然盆栽といわれる自然の景観を重視した樹形作りへと移っていきました。
無理に自然に反した樹形作りをしていては、植物の生命力を奪い観賞価値を維持することも困難でした。
また、このころには針金整枝法が開発され、それまで困難だった樹形作りが自由にできるようになりました。
この自然盆栽の概念と、針金整枝法の技術の発展は、現在の盆栽の基盤となっています。
明治維新以降、政府の要人の間でも盆栽を愛好する人物が大勢いました。
伊藤博文や大熊重信らは自身の邸内に栽培場を設けて、来訪者や会合の場に盆栽を飾っていたといわれています。
この風潮は政治家や皇族、財界にも広がって、それらの盆栽を管理する専門家も出てくるようになりました。
明治時代女性が盆栽(ハチウエ)を買い求めている
写真:らばQ
当時の盆栽は日本国内で大変評価され、女性の間でも刺繍や着物、書道に並んで重要なたしなみとして教育されていたようです。
盆栽熱が高まるにつれて、盆栽関係の図書も発行されるようになり、世間に盆栽が紹介されるようになると盆栽家たちも活発な活動を見せるようになり、広く大衆にも広がっていきました。
第2次世界大戦後、諸外国との交流が進むにつれて盆栽は日本独自の芸術文化として世界に紹介されました。
新しい魅せ方で楽しむ空中盆栽 : Air Bonsai | Create your "little star"
最近では盆栽愛好家の数も増え、日本国内だけでなく海外の盆栽愛好家の活動も目立ちます。
海外の住宅事情もそれぞれですが、日本と比較してもスケールの大きい庭がある場合が多いので、大きな盆栽でも充分置けるスペースがあります。
日本文化の象徴とも言える生きた芸術品は海外でも受け入れられ、様々な団体やコミュニティが存在しています。
また日本では、盆栽の最盛期にほとんどの山取り素材が取り尽くされ、今では業者による繁殖や改良によって素材を入手することが出来ています。
海外ではまだ山取り素材も豊富に残っていて、これからもっと盆栽人気は広がりを見せると思われます。
小さいツタの盆栽
「盆栽=リタイア後の趣味」というのはひと昔の話で、今では若い人の間でも愛好家が増加し、進化し続けています。
その主な背景にはサイズの縮小化があります。
大型盆栽は場所を取りますし仕立てるのに大変な時間がかかりますが、場所を取らずマンションのベランダなどでも育てられる小さい盆栽は初心者でも始めやすいものです。
樹や山野草など、数百円から手に入る素材で楽しむことができ、数年で古さがでるため短期間で仕立てる面白さがあります。
通常の大型盆栽に対して、樹高が最高20cm程で樹形を作って楽しむ小さい盆栽は小品盆栽(しょうひんぼんさい)と呼ばれ、既に100年の歴史があります。
昭和50年には全国小品盆栽組合の前身となる西日本小品盆栽会、昭和60年には全日本小品盆栽協会(公益社団法人)が作られ、独自のジャンルを築いてきました。
現在も愛好家の間でサイズはさらに小さくなり、10cmの比較的樹高のあるクラス、7cmクラス、果ては指に乗るくらいの極小盆栽の愛好家も少なくありません。
樹高が低くなるほど大型盆栽の様に枝数を確保できないため、少ない枝で姿を作る自然樹形が基本で、鋏作りや針金による癖付けでじっくり仕立てられます。
また、小さくなればなるほど環境変化に対する影響が大きいため、愛好家の間では日々の管理が試行錯誤されています。
世田谷のバルコニーで盆栽を始め、現在は盆栽のための広い土地を求めつくばへ移住計画中。小さい盆栽を中心に山野草や鉢作りを楽しんでいます。
動物好き。初代愛猫の名前は『アロ』。現在は雄のアビシニアンを飼っています。
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